第七女子会彷徨

最近、私はかなりピンポイントで、次々と面白い漫画を見つけている。面白漫画を引き寄せるニュータイプ能力が開花したのかもしれない。

先日、Amazon Unlimitedで一巻が無料だった『第七女子会彷徨』という漫画も素晴らしい作品だった。

多次元的女子高生日常SF漫画

暖かみがありなが、どことない繊細な危うさを感じさせる絵で、リミッターを外したドラえもんのような、あるいは根が明るくなったグレッグ・イーガンのような話が描かれる。

ドラえもんの場合は、どれだけ秘密道具が使われたとしても、作品世界は毎回、スタート地点に戻り、世界には何の変化も生じない。だが、本作品においては、SF的道具が使われたり、何かSF的な事件が起こるたびに、それが世界に不可逆的な変化を生じさせる。

グレッグ・イーガン作品では自己同一性への不安をもたらす事件が描かれ、それが作品全体にシニカルさと実存的不安をもたらしている。だが、本作においては、基本的に何がどうなろうと、どれだけ世界と自己の存在の基盤が揺らぐ事件が起きても、日常のほのぼの感はキープされる。

毎話、世界はグラグラと変化し、揺れ続けるのだが、主人公とその友人の女子高生二人の日常的な関係性に毎回、物語のフォーカスが戻るため、なんとなく世界に連続性が生じているように感じられ、それによって日常系漫画としての安心感が作品に生まれている。

世界の安定性はゼロに等しく、自分の存在の継続性も毎度のように脅かされる彼女たちの日常だが、そんな世界の中でも楽しげにのほほんと生きる彼女たちを見ていると、謎の安心感が読者にも伝わってくる。

もともと世界の安定性も、自分の同一性も、そんなものは常に移り変わるものであって、だから、それはどれだけ移り変わりまくってもいいのだ。安心感というものは、そういう見かけの部分から生じるものではないのだから。

人間、一秒ごとに変化しているし、世界も瞬きする毎に別の世界に変わっていっている。それは漫画の中だけではない、我々が生きている現実のことだ。その中で人間は、過去から未来へと続く盤石な時間の流れという架空の概念によって、自分の足場が固いという空想的な安心を抱いているが、それは空想的なものである。

世界が一秒先に今のようである保証は何もないし、この自分が一呼吸後に今と同じ自分である保証も何もないというのが現実である。

そのような現実に対し、安心感を得るための二つのアプローチが存在する。

一つ目のアプローチは、なんとかして、何の確たる足場もないこの現実体験に、継続性の根拠となる、なんらかの物理的、社会的、概念的構築物を建築し、それを維持しようとする試みである。

それは個人内においてはエゴを強化しようとする必死の試みとして現れる。またそのような構築物は、限りなく豪華絢爛に複雑化することが可能だが、どこまでいってもそれは空想の上に構築されたファンタジーに過ぎないため、そのような幻に安心感の根拠を得ようとする試みは失敗に終わることが運命付けられている。そのため、幻に依拠した安心はその裏に常に同量の不安を抱えている。

一方、それとは違う二つ目のアプローチとしてあるのは『自分の存在が何一つ依って立つところがないという無重力の真空のような現実認識の上に、とにかくなんの根拠もなく安心してしまう』という方向性である。

この種の、無根拠であるがゆえの根源的な安心がこの漫画には表現されていると私には感じられる。

物語の表面にあるSF的流転が、生と死、機械と生命、この現実と平行現実、過去と未来、夢と幻、そういった各種の境界をハイスピードでかき混ぜ続けるとき、そのようなテクスチャーの下にある、目に見えない静かな深みの奥で、揺るぎなく永遠に続くものが強く我々の心に暗示されるのである。

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